奥原硝子製造所

奥原硝子製造所
沖縄県那覇市

略歴
1952年 ガラス職人の奥原盛栄氏により創業
1974年 桃原正男氏が社長に就任
2001年 産業経済部門功労賞を受賞。桃原正男氏が「卓越した技能者/現代の名工」に選ばれる

桃原正男氏が亡くなった現在、宮城和六氏が社長に就任し経営を担い、2005年に沖縄県工芸士に認定された上里幸春工場長がガラス職人たちと共に奥原硝子製造所に伝えられてきた技術を継承している。

太平洋戦争前はランプの火屋(ガラスカバー)や薬瓶、駄菓子屋の角瓶などの日用品を主に作っていた現在琉球ガラスと呼ばれる沖縄のガラスも、戦後はアメリカ駐留兵からの注文や基地内での販売、アメリカへの輸出と、戦前より作るものの形や、色、サイズが多岐に渡るようになりました。

奥原硝子製造所の始まりは、戦前からガラス工場を営んでいた前田正男氏からガラス職人だった奥原盛栄氏と、同じくガラス職人だった島袋栄末氏が工場を譲り受け、1952年に奥原硝子製造所として改名し工場を再スタートしたところから始まります。


1950年代終わりになると、奥原硝子製造所への見学者も増え始め、ガラス製品をオーダーする在沖縄アメリカ駐留兵や県内各地からの観光客も増えたそうです。特にアメリカ人のオーダーは、それまで規定の製品作りをしてきた戦前からのガラス職人たちにとって試行錯誤の連続だったそうです。それらに答えていくうちに、色付きガラスや泡ガラスが生まれていきました。

2001年に「卓越した技術者/現代の名工」に選ばれた桃原正男氏が社長に就任したのは、1972年の沖縄領土返還から2年が経った1974年でした。返還後もアメリカからの注文が多くを占めるため、アメリカ人の生活様式に合ったアメリカ人好みの商品が作られたそうです。


年月とともに本土からの注文も増え、日本人の生活様式にあった日用品のガラスが多く生み出されるようになり、現在では性別年齢問わず多くの方に愛用されています。


桃原氏が亡くなった今も、工場長を筆頭に多くの職人さんたちがこの沖縄で最も歴史あるガラス工房である奥原硝子製造所の技術を継承し、廃瓶を利用した吹き硝子という技法で、再生ガラス特有の味わいと温かみがあり、素朴な厚みや重みのあるガラスを作り続けています。


実際に作業を拝見すると、それはまるでスポーツの連携プレーのようです。1人の職人が全てを行う作業と違い、職人同士の呼吸が合わないといいものは作れないのだというのが肌で感じます。製造所にはそれぞれ役割が異なる複数の窯があり、作業場の温度はかなりの高温になっています。

観光客向けの色彩あでやかなガラスではなく、日用品として食卓で使う素朴なガラスを作り続けている数少ないガラス工房です。




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