Column - 読谷山焼北窯 松田共司さんインタビュー

自分のアイデンティティ

─ 今回の個展はいつもの工房の仕事とは別に、クレイ(共司さんがやちむんの里で経営しているカフェ&ギャラリー)で展開しているラインもお願いしていますが、そちらの作品についてお聞かせください。

まずなぜ復刻、昔のものをやるかというと、自分の個人的な意見を言うと、自分の場合は初代で焼き物をやっているので、自分の血筋の中に焼物屋さんというのがまるでない。それで壺屋の人たちというか血を継いだ人たちは200年、300年経っているわけで、彼らの血の中にはちゃんと焼き物を受け継ぐ、生活の中で受け継がれた一つの先祖代々の力がまず彼らにあるということと、自分の場合はまるでそれはなかったと。でも沖縄人としての血筋はあるので、大まかに言えば自分の中にも血筋が流れていると思うんだけど、で自分の場合はまぁ自分の親なり先祖なりが焼き物をやっていないので、調べてみようというのがまぁ自分の中にあって、現在作られているものから自分は焼き物をやり始めた。

だけどその自分のルーツを考えた場合、自分の正体を考えた場合には、やっぱり焼き物にしろ何にしろ、ちょっと先輩たちのものを勉強する必要があってくるんで、まぁ先輩と言っても100年前とか、200年、300年前とか、ひいてはそのお隣さんというか隣の国、中国やら韓国やら、もちろん日本含めて、調べた方が自分のアイデンティティ、正体を理解したり会得したりすることによって、まぁ自己満足というかな簡単に言えば。でももう一度掘り起こすことによって、自分に新たなその焼き物の世界を広げてくれる、とずっと思いめぐらせていることがあったんだけど、でもやってみたらとてつもなく時間がかかりそう。これは自分の時代では難しいといえども、やらざるをえないというは運命的なものなんで、でも壺屋の人たちはそれをやる意味はあんまりないのかなぁ、ずっと血筋がそうだし。なのでまぁ自分の場合はそれをやらないと通らないと、将来も見えてこないというのがまずあったわけね。

で、それはまたとてもいい機会があって、4年ぐらい前かな?その県の方から復刻の依頼があったわけ。それを3年かけてやって下さいということで、一応予算ももらったのでいけると思ったのでやってみた。それはレプリカを作るんじゃなくて、なんという名前だったかな?ちゃんとした復刻。窯から土から技法からその焼き物の形態というか、それまでみんな昔のようにやってものを同じように生み出して欲しいという県の要望があった。で、それは3年ぐらい時間かけていいよ。それなりの土にかかる賃金は払うからと。よっしゃーと言ったんだけど、最初は嬉しかったんだけどやってみたら大変だというのがわかって、それで自分の中では寝ても覚めてもそれしか頭になくて。

それは自分にとってはとてもいい時間だったけどね。もう365日x3、頭から離れることはなくやり続けたんだけど、なんとか監修員の人たちが「これはいいんじゃない」という所まで持っていった。それをやった結果自分の中でどうだったかということ。自分が満足したかどうか。それをやった時に、自分は不満足、自分はもっと時間かければいいのができるだろうなというのが一つと、他の監修の方々が認めてくれたのはありがとうと嬉しかったし、そうすることによって沖縄の焼き物の幅が自分なりに理解できたということ。

で、それは焼き物、それから織物、木工、紅型、織物とてつもない予算をかけて県がやって沖縄の文化を取り戻そうと県の指定の宝物となっているものを復刻して、本物は外国に持ち出せないから、それを模造を作ってヨーロッパや南半球に持ってって沖縄はいい所ですよと僕らが作ったものを持っていく。これは本物ではないけどレプリカではない。本物に近いものを作って、復刻版ですということでそれを作ったの。そうすることによって自分のルーツも見えてきたと思って、もっともっと掘り下げてみたら、僕は読谷出身なんで読谷には窯があったの。もちろん。そして壺屋ができる前から、読谷には窯があって喜納焼というのがあって、僕はその隣の部落なのね。だから喜納、伊良皆、大湾というのがあるんだけど、たぶん読谷の人たちも焼き物に関する大いに血が流れていると言うことで、なんとなく自分のルーツというのも想像に任せて(焼き物を)やってたんじゃないかなぁと思って、そうじゃないと自分のポジションを焼き物に対して、焼き物の歴史の線上に自分を置くことができる。そうしたら何となく言い知れない安心感というか、それができると。そんなことしなくてもいいんじゃないかとも思うけど、まぁでも不思議なもので僕が生まれた読谷にも喜納焼があるし、で喜納焼も探ってみた。で窯が出たというところを漁って土も焼いてみた。その復刻というか自分なりに読谷の焼き物を漁ってみるというか。まぁそれは今21世紀から20世紀、19世紀、18世紀ぐらいの、その壺屋が1682年ごろにできるんだけど、その以前の焼き物も非常に興味がでてきて、それを作って技法から土から。そういう意味で歴史を探ってみる、形もそれに一応共感してそれを現在に使ってみるのもokじゃないかと、そういう感じかな。




琉球って聞いたことがあるな、あれ?

─ 焼き物の世界に入ったきっかけを教えてください。

自分の中で複雑で、焼き物が好きで入ったわけじゃなくて、ちょうど16歳から18歳ぐらい。みんな沖縄復帰闘争というのがあって、僕らが高校生の時だったから。みんな沖縄返せ!とか日本になろうというのがあって、沖縄は日本なんだっていう人もいるし、沖縄は復帰しない方がいいって、独立するっていう人や、いや、中国がいいんじゃないか?っていう人もいた。色々あったの。で、僕らは琉球王国でしょうって、ちゃんとした王国だったんだから何とかなるんじゃない?だから独立っていうの。いや、でもこの前の戦争でもめったくそにやられたし。もう基地はあるは、人権の問題でも被害にあったり殺された人もいたり。女子供が可哀想だよね、こんな情報もいっぱい入ってきて、18歳ぐらいになると考えちゃう。昔中国だったみたいなんだけど、琉球王国だったみたいなんだけど。また日本になってから廃藩置県というのがあって、藩はなくなって県になって、しばらくしたら戦争がおこってアメリカ軍に占領されて、今度また日本になるらしい。で、俺たちどうなるの?って

最終的に自分のことしか考えてないから。いやだなぁとなって、沖縄は出て日本人になろうと思って東京に逃げてったの。逃げるって表現。もういやだからって。東京で絵を勉強する。それが18歳ぐらい。親から仕送りもあんまりなく、まぁ働きながらやりゃあいいさって。で飛び出してったの。で3日ももたず、お金ないから(笑)。で、八王子にいた姉ちゃんのところに最初行ったんだけど、電車見るのも初めて。もう新宿なんて!学校が神田あたりから下に降りていくと小さな専門学校があって、そこに行ってたんだけど。もう、とにかくあんなに人を見たことないから、電車も見たことないし。東京は違いすぎるって。

東京に着きました。自分は7人兄弟の一番下。男6人で女姉ちゃんが1人。なので、僕は双子なので小さい頃からいつも一緒。遊ぶにも何するにも。で一人の世界というのが興味あった。それで、まぁそれもあり、色々なんかあったんだ。言葉で表現できない何かがあったんだ。とにかく沖縄にいるよりは出て、その本当の平和というのを。日本は憲法9条があるから絶対戦争しない国だと。だから本当に平和な人になる。平和というか戦争をしない人殺しをしない国という。教えられたというかな、小さい頃から16とか18とかなら考えきれないでしょ?自分で。で、先輩方が真の平和について語る、非常にまたそういうことに興味があって、いつもベトナムの人から悪魔の島と呼ばれていたから、沖縄も。米軍の基地になって雨のように爆弾を降らせる、たくさんの人を殺した。沖縄と言ったら震え上がるんだって。お前はそんな人間だろうと言われる。そんなことはないよと言っても、もう無駄な感じだから。とにかく沖縄から俺は姿を消すぞと言ってね。友達が結構いたんで宣言したから。俺はもうごめんだけど沖縄には帰ってこないよって格好良くね。みんな飛行機で行くんだけど、俺は船で行って、もう船酔いしてもう2度と沖縄に帰ってくるもんか。帰れないもうあんな苦しい思いして内地に行ったんだからと、わざわざ船で行ったわけ。その代わりとして万年筆買ったの。エッチングするスケッチするために。

そして船に乗って東京の晴海埠頭に着きました。そしたら友人が迎えに来てくれて、先輩が迎えてに来てくれて、もうグラグラするんだよ。もうげっそり痩せてご飯も食べてないし。で、姉ちゃんのうちに行って、その時電車初めて見たの。ずっと小さい頃から実家は農業。豚が6頭ぐらいいて、ヤギが2頭いて、あひると鶏、うさぎがいて。そういう生活だったの。だから田舎の少年が都会に来て何これって感じになって。夕方かな?電車がバーッと来て、キンキンキンと電車の音とか、人がおうちにザーッと帰るの見て、あの人たち立ったまま帰るのかぁって思って。うわーすげぇって。あんなにいっぱいの人どこに帰るのかなぁって。朝、人を電車に詰め込んで人の後ろを押す駅員さんがいる。まぁあの時は参った。これ人間がやることって。何しに行くのかなこの人たちって。そしてそれ見た途端、大きな平和とか何とか考える前に???がいっぱいになって。

まぁ最初は受け入れられたんだけど、それがまぁ1年終わってみたら、うーんとなって。ずっとお前ここで生きるって言ってたよなぁって。うーんとなって。いろんな食べ物屋があるから、立ち食い蕎麦ってあるみたいねって言って知人と食べてみたの。そしたら落ちないわけよ。立って食べるなんて生まれて初めてだから。だって立って食べる何んてまずないから、でできないって言ってビール箱持ってきて座って食べたら、ツルツルと落ちてくるの。座ったらお尻のスイッチが入ったみたいに。つるんと。へーって立ち食いそばね。この人なんで座って食べないの?って聞いたら座るところがないからって言うの。これまた???でね。僕はゆっくり食べてるけど、みんなさーっと食べるのよ。うーんとそこでまた立ち止まって。またまたいつものように考え始めるのよ。もしかして俺はここじゃないかもしれないなぁって。でも今お家に帰ったら友達に会わせる顔がない。友達の顔が怖い。もう何て言われるか怖い。もう小心者だからね。うちに帰れない、東京にも残らない。どうするっと。姉ちゃんのところにもあまり厄介できないから、ひと月ぐらいかな。さようならって言って転々と二十何箇所ぐらい変わって1年間で。

そうしてその中で勉強したのが、俺って一体何者なんだって大きな疑問がまた出てきてから。うーん、確かに猿だったみたいなんだけど、いや待て小さい時はアメーバだったってとか聞いてるよって。まぁ猿がここまでなってるから、俺はもういいかなぁって感じで。猿がここまでくるのかぁってなって。単純な考え方だから。待てよってことになって、あぁでもとにかく暫くいようって1年間いて、バイトしては美術館回ったり工芸館回ったりしていて。感づいたのがこれ何ですかね?って聞いたら紅型っていうのよ。紅型って初めて聞くわけよ。沖縄にいても勉強したことないから。きれいだね、これ中国じゃない?って言ったら琉球よって言うわけよ。琉球って聞いたことがあるな、あれ?なんならうちじゃない?それもそうだし漆器、塗り物もこれ絶対中国じゃない?って聞いたら、琉球ですよって言うのよ。焼き物もおっとりして何か可愛いよねって言ったら、これも琉球よって言うのよ。えーってなって、全然興味が湧かなかったから。それでしばらくして、何か引かれるのよ。興味持ったというかね。そして暫くして電話だったのかな?隣のおうちから電話いれたら、かぁちゃん病気だよって言うの。かぁちゃん病気かぁ。帰れる。俺帰れるって思って、お家に沖縄に帰ってきた。

そしたらかぁちゃんってどんなだよって言ったら、調子悪いって言うから、そしたらおばちゃんが嫁があんたのお母さん3か月の命だよって言われてた言うから。えーってなって。そんなことないよって。でも自分も6男で甘えん坊に育てられているから、だいたいあまり努力もしない。甘えん坊で仕事も自分勝手というか、自分がこうと思ったらバーッといっちゃって。ちょっと精神的な障害もあったかなと思うけどね(笑)。小さい時集中したら授業の鈴も聞こえない、鉄棒にずっとブラ下がってて社会性が全くなかった。それで高校までいってるから、高校行ったら一旦考えたらもう何で俺はここにいる存在なの?って考えてしまってるから。で、東京行ってなおもそれが深まってきて、東京から沖縄に帰れると思って本当は住みたかったけど本当はね、帰ってきたら、米司が焼き物やってたの。首里の方で焼き物やると言ってて。そしたらもう土触ってるの。

俺にもさせてくれと言って焼き物をやり始めたんだけど。その時に、沖縄にいる時からの友達が教会行きだしたの。キリスト教のね。そしたら共司、人は土からできてるんだよって言うわけ。まさかーって。何を御伽噺を言ってるんだって。じゃあこれ読んでみなって言われて聖書を読んだら字だらけだから、小さい頃から本読んでないから読みきれないのよ。投げ捨てたんだけど、1行1行読んでみたら興味がでてきて、人は土で作って神は鼻に息を入れて生きるものになったと。待てよと。米司、人は神が土で作って鼻から息をいれて生きるものになったんだよと言ったらゲラゲラ笑ってるのよ。でもこれ本当じゃないかって。うちら土同然だと思うよって。そしたら俺って何者か何者かって。

土・・・俺って沖縄生まれだから、そういえば東京から帰ってきた時は飛行機で帰ってきたんだけど、もうさっさと帰りたかったから。1972年ごろから復帰が始まって1975年にわかなつ国体復帰記念なんとか事業というのが沖縄県に莫大なお金が注ぎ込まれていて、復帰記念の大行事をやろうとしてて、沖縄の山林を掘削しながらこう道を作ってるの。緑の中から赤いスジがギューっと見えてて、道をつくる時。それが血のように見えたの。そのグリーンの中にギューっと赤が。もうドキドキしながら飛行機の上から。でグルーっと回ってまた飛行機が着陸できなくて、また同じところを通るの。ドキドキして赤い血みたいね。その時がすごいインパクトでね。これ沖縄の土から生まれたのかなってね。飛行機の中から感じて降りたら、聖書の中に人は土からできてるよって友達が言うから、それでポコんって入っちゃったの。ポンって入ってしまって、それで土を信頼したらできるかなぁっていうのがありました。その頃米司が焼き物やってるから、大嶺さん師匠が彼が僕にそんな顔してたのかな?「沖縄の人はね沖縄の土で器を作り、沖縄の食材をこの器に入れて食う。それが沖縄の生き方じゃないか」って。すごいなぁこの人はってなって、弟子入りさせて下さいってお願いしたの。ちょうど19歳になった頃かな?お願いしますって言ってさ。大嶺さんも困った顔してさ、双子を雇うのかって今考えたらよ。その当時は僕そんな事考えなかったけど、大嶺さんも双子を雇うのは今考えたら大変だったと思うよ。いいよって言ってくれてさ、とにかくさせて下さいって言って、あっという間に10年間過ぎ去った。

人は土に違いない

自分は焼き物やって3年目になった時に、俺は焼き物好きじゃないんじゃないかなって思って。好きか嫌いか自分じゃわからないし。土に興味があって入って。焼き物は作って焼いて売ってできるシステムだから。僕は土だけだったから最初。まぁ畑もあるしなぁ土ってなぁとか思って。焼き物かぁみたいに3年間悶々としてて。でも米司は一生懸命やってたから米司に馬鹿者がんばれって言われて。はいはいって。5年目ぐらいには同級生は家庭を持ってる人もいるし、社会でもある意味安定した生活を送ってる。俺は全然だめだしなぁってそんな話してたのね。5年も過ぎると転職もできないからね。それからスイッチが入って、よっしゃーってなって。まぁ焼き物の勉強も好きだったからね、ある意味あっという間に10年間過ぎたって感じかな。そこで発見したのが、人は土に違いないっていう確信かな。あとは死んだら土に還る。確かにそれだよなって。それで焼き物やり始めたから、焼き物好きかって聞かれたら目ぱちぱちしちゃうけど、好きに違いない。土から入っていって、焼き物の工程とかね。それはちょっと無頓着というかあんまり分からなかった。でもそのルーツとか自分の生き方とか、その歴史のこと考えたら、ちゃんと順序よく美しいものが生まれる、焼き物は美しいんだよっていうことをまた先生方が教えてくれた、沖縄の焼き物は美しいんだよって。こういう理由で美しいんだよって。あぁそうですかと真に受けて、それで50年これずっとやってる。そんな感じかな。

だからあまり複雑には考えないようにしてる。お前複雑に考えてるじゃないかって感じだけどシンプルに考えて。300年も続いた沖縄の技法を、ただただ無くしたくないというのがあって、自分も沖縄の文化を取り戻すことによって自分がもう一度保てるアイデンティティというのがあるのかなと思って探し求めていたんだけど、どうも最近は文化を取り戻したら自分のアイデンティティがしっかりするかというと、そうでもないよって思ってね。文化はエゴに近いような感じがしてね。例えば中国の文化でも、あひるに餌をたくさん与えて肝臓を膨らませてから、切って食うとかさ。もう何日間も料理に時間かけて食うとか。それって不合理で、貧しい人のこと考えてないなって思うのよ。でもまぁ文化だから。すごい贅沢な文化もあるし簡素な文化ももちろんある。文化文化ばかりしてると、どうも自分の中で腑に落ちないことがでてきた。でもまだ考えてる途中で、まだ分からないと言った方がいいかな。

自分の中で文化って何ですかって。確かに自分を支えてきた沖縄文化をもう一度ね。沖縄で壺屋はもう死んでるっていう人がいるけど、わかってるよって。1975年頃に登り窯が廃止された。え?みたいな感じだった。うちの先生が、登り窯が最後の唯一の文化を生み出すところだってずっと言い続けてたのを僕は鵜呑みにしてしまってるからさ。今ではガス窯も電気窯ももちろんいいと思う。認めないといけない。いいけど、あんたはどうするの?って言われたら、うん。俺は登り窯ねって言うね。4人集まって登り窯を炊き続けるねってことを一応口約束でしてるから。それは自分の証になるかなぁって。たぶん僕らが死ぬまでは、年寄りで杖ついてるかもしれないし後はわからないけど、まぁ何がいいとは言えないけど、でも確かに沖縄らしさは登り窯が加勢してくれる。非常に強力な武器だよね。また他の表現もガスでもできるんだろうなぁって思うけどね。雰囲気出せる技術が上がったと思うけどね。登り窯は簡単。非常にらしさが出るというか。で一つ最近感じてるのが、文化というよりも「らしさ」という言葉。これが面白い言葉だなと。沖縄らしさとか、女性らしさとか子供らしさとか。一番自分の中で重要な位置を占めてるところかな。沖縄の焼き物らしさを求めるから皆四苦八苦してる。だから登り窯でやったり、生まれ故郷の土を漁ってそれを焼いてる。それは沖縄らしさを出すために一生懸命やってると思うんだ。それを登りでやったり沖縄の土を使ったり、過程というのかな物語というのかな。物語はらしさを出すために一生懸命やるための工夫だと思うんだ。それでらしさが出れば、ある程度過程というか、まぁないものは土がなくなったら、内地の土を使っても沖縄らしさ文化を出せるようにしたいねぇ。 誰か出してくれると思うけど。そんな感じかな。




弟子たちは、ここでは縛るのよ

─ 今までの弟子たちが地元やいろいろなところに戻って焼き物を作るけど、作るものに対して沖縄らしさとかアドバイスをすることはありますか?

それはないけどね。とにかくここにいる時は、親方の猿真似してよって言うの。もう右行ってって言えば右に行くし、左に行ってよって言えば左に行くし。それができたらもう天才だ。それができないから皆んな挫折する。これよく例え話するんだけど、具志堅用高という人がいる。あの人に会長みたいな人が隣にいて、左ジャブ出せって言われたら出せるの。でパンチくらわせろって言われたら食らわすの。下がれって言われたら下がるし、行けって言われたら行くし。彼はそれをできる人なの。具志堅用高って。それで彼は勝利し続けてきたの。今だーって言ったら本当にダッシュするし。普通の人だったら、右に行けって言ったら行きたいんです。でも行けないんですって言うんだよ。それで負けるわけよ。具志堅っていう人は本当すごいのよ。

弟子たちは、ここでは縛るのよ。10年間ね。はちきれないと自分って出ないの。軽く絞めたらだめなのよ。やや強めに縛って。それを僕がパチンって切ってあげるか、あるいは彼が金バサミでパチンって切れば、バーンって広がるし。適当にやったらね全然ただ親方の真似がそのまま続行するだけになるし。ここの工房では強く縛る。最初からそう言ってるんだ。強く縛るよーって。やれって言ったらすぐやるんだよって。もたもたしてたらちょっと遅れてるよって言うけどね。まぁ現代そんなことやったらパワハラって言われちゃうけど、ここでは通用しないからねって言ってる。それは将来のためだからねって言ってる。それができなかったら早く独立しなさいって言ってる。で、自分はこうやりたいですって言ったら、はい、終わり。おーやりたいんだろって。俺はダメだよ、話は簡単。ここで10年間頑張れる人は親方が言うようにできるようになる。強く縛って独立した子は、全然何も言わない。恐れられたり、この人こんなこと言うとかあるかもしれないけど、わずか10年だからね。
どうしても自分の技術を弟子たちにね100%あげて、その上に自分の技術を得たらすごいよって言ってる。自分の持ってるものはみんなあげたいんだけど、なかなか具志堅用高じゃないけど、何でやらないんだってね。




沖縄の焼き物をやりましょう

─ 4人の親方でこの窯を始めたのは、沖縄の焼き物を継承していきたいという思いから4人で始めたのですか?

そうそうそう。まず一つは自分たちの中に、文化を取り戻すんだ。沖縄の焼き物の道筋に帰るんだと。登り窯で焼き物を焼くだとか、そんなことを色々と話し込んできたわけ。で、3つの柱を立てたの。1つは沖縄の焼き物をやりましょうということ。そしたら皆んな困ってしまって沖縄の焼き物って何かぁ?ってなってね、そしたら沖縄の土で作ったら沖縄の焼き物になるのか?って言ったら、ならないと思うよみたいな。いやぁそんなことガタガタ言わないで沖縄の焼き物作ろうってね。じゃあうんまぁ言葉で置いとこうって。沖縄の焼き物を作りましょうって。次、登り窯をずっと炊き続けましょう。

そしてもう一つは弟子育成。この弟子育成っていうのは、うち共同でそれぞれの工房なんだけど、まず、おはようございますとか、さようならとか、ごくろうさまとか、そう言う挨拶が今の子は大学卒業してもできないの。大学院卒業してもね。おはようは?朝はおはようだろ。って言うと、あああ、おはようございますって言うの。そういうのをお互いにする。あとは朝のラジオ体操をする。9時になったら、みんなで健康チェックをお互いにする。他の弟子もね、あいつ今日調子悪いんじゃないかって。そういう弟子を育成するための共同体をとる。まず、沖縄の焼き物をつくりましょう。登り窯を炊きましょう。弟子育成しましょうというのと、その共同に関するものを多く持ちましょうと。3時のお茶とか、今コロナで廃止してるけどまたね。そう言う共同システムは沖縄のゆいまーるというのがあるんだけど、それも文化だから。非常に強力なその焼き物を生み出す一つの原動力になると思うんだ。まぁみんな分かってることだから、それはやりましょう。與那原さんも含めて僕らの年代まではみんなやってた。でも僕らより3つぐらい年下の人たちはわからない。ちょうど文化が違ってね日本になった。日本になった時から一生懸命勉強しましょう。トップになりましょう。僕らの時は隣の人を大事にした方が一番だった。みんなで協力して。トップになりましょうとは言わない、言ってはいんだけど、別に無理してトップになる必要はないって感じだった。一番になってどうするの?わからないさ。そんな風に小さい頃から育ってしまって。

もう一つ、これはもう失敗したなって思うんだけど。経済を高めましょうというのを謳っておけばよかったなぁって。それ言ってないさ。儲けましょうとは言わないけど、ちょっと経済を潤してから、いろんなその少しは楽になりましょうというかね。いい表現で経済も言っとけば良かったかなって。3本柱というのは全部放出するばかりで、なんか今からでも遅くないかなって。4つ目。経済をどうにかしましょうとかね。そうしたら、ボランティアの人とかにも払えるしね。まぁガツガツ儲けるわけじゃないけどね。今でもやっとギリギリだから。まぁそれが、不思議なことに長続きする方法かもしれない。儲け過ぎず、餓死せず、ヒーヒーしてる状態ね。それがこの歳になるといいんじゃないかなぁって思うね。いつも崖っぷちに立ってきた30年だったから。

僕と宮城さんのところは、数をばんばか作って登り窯でたくさん焼いてなんとか儲けを出すって感じかな。それは弟子育成にも関係していることだしね。周りからは生産数をぐっと落として、一つ一つを高くした方がいいんじゃない?ってアドバイスもあるけど、僕は性に合わない。入院してヨボヨボになったら、高くするかもね(笑)なかなかね、そう言う気はないね。弟子育成するにはどうしても数ものを作らないといけないからね。

─ 最初は沖縄の人だけをお弟子さんにとってたのに、内地の人もとるようになったのは理由があるのでしょうか?

まず沖縄の人がやりたがらない。それと女子はうちの工房は入れたことなかったの。でもやる気があるんだったらいいかなぁって一回入れたの。そしたら全然打たれ強いの。男子よりも打たれ強いよ。男の子はバンって言ったらもうダメ。女の子はバンって言ったら何ですか!?って。それと女子がいると雰囲気がいいよね。男子ばっかりだとギスギスして常時戦いだったから。

まぁ最初から内地の人でもいいんじゃないかって思ってたよ。青い目の人はどうなの?外人ね。いいんじゃない?継承されてきた沖縄の文化が工程というか作り方を大きく変えなければ目が青くてもいいんじゃないって話はしとった。ただ、内地から来たんで内地のやり方はこうだからこの工房で私のやり方はこうですってやるって言うのはご法度。これはちゃんとした沖縄のね。ちょっと語弊があるかもしれないけど、沖縄流でやらなければ意味ないよって。何でって言われたら、いやぁあれは本当に素晴らしいものだから本当に宝石のようにキラキラと輝いている工程なんだよ。それがこう言う風にして生み出されるんだよって。だからこれを工程で省くと、結果こうなるよって。省かなかったらこんなに美しいんだよ。省いてしまったらこうなってしまうんだよって。そういう話をしながら、それは男子でも女子でも。

今ねぇ困ったなぁっていうのは、女子がたくさん入ってきて、水肥する時に昔は野郎ばっかりだったから、一輪車に山盛り持ってきて仕事が早かった。で、男女平等だから女子が入ってるから女子じゃ運べないから、一輪車に7個か8個くらいでみんな持ってくるの。そしたら男も7個も8個くらいで持ってくるわけさ。ゆっくりでみんな合わせてしまうからスピード感もない。パワーもない。まぁ僕から見てね。彼らにとっては違うかもしれないけど、でも瞬発力のない焼き物ってつまらんよなぁって。彼らにとっては元気あるわけよ。でもこっちで見たらうーんってイマイチだなって思うんだけど、それが段々段々なってきたかなぁって。もう男女平等で仕事もゆっくりは悪くないんだけど、肝心な時に切れ味が悪い。そういうのがちょっと見え出してるかな。でもそれがもう普通になってる。前は僕らは朝来たら9時だったら、10時に一回お茶飲んで、すぐ出発仕事してた。で3時のおやつもね。でも共同させたら、10分15分おきに休んでるの。暑いって。10分やって10分休んで10分やって10分休んで。そうしないと熱中症になるでしょう。怖いって。とにかく休めって。それでやらなきゃいけない。前は野郎ばっかりの時は、土出ししろって言ったら誰がうまい具合に出せるか、競い合って30分で出してた。今は1時間かかる。まぁ時代時代なんだろうね。で、機械を使う。釘はみんなバンバンって機械使うから、釘打てる人がいない。それで昔のような焼き物できるかっていうと、残念ながらできないよね。まぁ環境は一応揃えたつもりだけどね。共同の窯があり蹴りろくろがあり。揃えたんだけど、果たしてそれが使えるかって言ったらなかなかね。その時代というか、教育っていうのかな。僕らにとっては大敵ではある。ブラック企業No.1じゃないかな。給料は安いし。

─ 内地から来た弟子たちが、自分たちの土地に帰って自分たちの焼き物をしたとしても、沖縄の焼き物を普及してくれると思うか?

うん。それもある。でもそれは難しいと思う。というのは土が違うからね。でも沖縄で焼き物やってる人たちいっぱいいるじゃない。でもほとんどが内地から土を買って、あるいは陶土工場から買って物を作ってるから、買い土じゃない。ここは自分たちで土から作ってるから、こういう感じにはなかななならない。

─ お弟子さんたちはいる間は沖縄の焼き物を理解してやって、帰ったら自分たちの焼き物をやればいいという考えでしょうか?

そうそう。極端な話お互いライバルになろうねって。そこまでになってほしいね。
まぁ多くの人に使ってほしいよね。沖縄の人たちが焼き物を使い始めたっていうのが嬉しい。僕らがやった時は誰も見向きもしなかった。マカイが一個も売れなかった。いつ売れる日が来るんだろうって。やっと売れ始めたね。頑張ってよかったなぁって。



2022年8月 北窯にて


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